鎮座地 |
〒669-5125 兵庫県朝来市山東町粟鹿2152 旧但馬国 朝来郡  |
電話 |
079-676-2465 |
旧社格等 |
県社
但馬國一の宮
式内社 但馬國朝來郡 粟鹿神社 名神大 |
御祭神 |
・天美佐利命(大國主命の御子)
・日子坐王命(開化天皇の第三皇子)
・日子穂穂手美尊(山幸彦)
阿波奈岐尊 伊弉奈岐尊 天照大日孁尊 籠神 鵜葺草葺不合尊 月讀尊 素盞嗚尊 豊玉姫尊 |
御由緒 |
旧勅願所 粟鹿神社由緒
但馬國一宮 鎮坐地 兵庫県朝来郡山東町粟鹿鴨ヶ端二一五二番地
文献 = 『粟鹿大明神元記』
和銅元年に粟鹿神社祭主の神部直根開が勘注上申した竪系圖で、京都九条家の秘庫に蔵されていたものを、 昭和三十年に学士院会員の是澤恭三博士が発掘せられ、現在、宮内庁書陵部に保管せられているもの(以下 元記と云ふ)。
右古文書は日本上代史上稀有の文献と絶賛せられており、和銅五年に撰述せられた古事記よりも四年早く 上申され、系岡に出ている人物も、太田々祢古命が古事記(崇神天皇)の項に、右祭主が三輪君根麻呂の 名前で日本書紀(天智天皇)の項に夫々書かれている等、日本歴史の嚆矢とも云へる記・紀が、共に元記を 裏付けしていることから見ても、この古文書は驚異に価するものと云はれている。
延喜式
延長五年(九二七年)に撰上せられし延喜式には、往時の高い社格の神社のみが登載され、之に依れば粟鹿神社は但馬國筆頭の名神大社で、最上段にも獨り粟鹿神社が掲記せられている。
大日本國一宮記 = 別記
天正十八年(一五八〇年)以降、神祇祭祀の要職にありし吉田家の書いたもので、全國の六十七社が登載されている。
神社の創始
第十代崇神天皇の御代(紀元前九六~二九年)に、右元記で大國主命の十一代目の孫にあたる太多彦命の肩書に「但馬國朝来郡粟鹿神部直」とあり、神社に奉仕していたことが窺はれる。
主なる御祭神
一、天美佐利命(大國主命の御子)
元記に依れば「垂仁天皇の御代、粟鹿の嶺に坐せし荒振神、即ち天美佐利命の神狀を朝廷に申出で、幣吊を給って鎮め祭らしむ」と記されている。即ち社記と併せて推察するに、祀られし場所は、粟鹿山中腹の池ヶ平と推定される。
二、日子坐王命(開化天皇の第三皇子)
この命は第十代崇神天皇の御代、四道将軍の一人として旦波・若狭および山隆地方を平定巡接せられ、当地に於ひて蒙去、鴨ヶ端の現社殿背後の丘陵に祀る、と伝へられている。
第十四代仲哀天皇の御后で命の四代目の孫にあたる神功皇后は、新羅に軍を進める前に、勅使を粟鹿神社に派遣して歌勝を祈願せられ、凱旋の後に其の報賛として右丘陵の南端に新しく社殿を建て、池ケ平の神社の御祭神を遷座奉安せられ、合はせて命をも御祭神として祀られた、と云はれる。(栗鹿大社縁起)
三、日子穂穗手見尊(古事記に傅くる山狭知昆古)
尊が海神から授けられたと云ふ満・干二珠を、神功皇后が新羅に捧持せられ、凱旋のとき塩満珠を粟鹿神社に奉納せられし故事から、尊を御祭神として祀ったものと考へられる。
四、以上の神々と共に左の神々が本殿に祀られている。
阿波奈岐尊(あはなぎのみこと)伊弉奈岐尊(いざなぎのみこと)天照大日孁尊(あまてらすおおひるめのみこと)籠神(このかみ)
鵜葺草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)月讀尊(つきよみのみこと)素盞嗚尊(すさのをのみこと)豊玉姫尊(とよたまひめのみこと)
由緒等
一、景行天皇の御代、熊襲を征し給ひし時、勅して社殿を造営される。(約一、九〇〇年前)
天武天皇の四年、大早百姓飢ゆ、朝使清原冬满至自、本同域一丁五段草菜の地を開き天神地祇を祭り祈年す、後五穀豊穣。(七七六年)
情和天皇の貞観十六年、勅使倭朝臣兼直至自、天下疫癘の治まることを祈願。(八七四年)
後宇多天皇の弘安四年、蒙古九州に寇す、因て我社に勅使ト部兼直卿を遣し祈願し給を以て神階を進め、宸翰の額を納め給ひ、祭田を賜る。(一二八一年)
(神社パンフレットより抜粋)
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参拝月日 |
10/24/2008 |